静岡県浜松市中央区泉自治会

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泉の沿革

町名の由来

泉地区には、段子川沿いを主として湧水地が10数か所もあり(現在は2か所)、湧水が多くあるところから泉のある町として「泉町」と名付けられた。

泉の歴史

アイコン奈良・平安時代
浜松市の歴史の中には、泉についての記録はないが、先住民が住んだと思われる証拠が発見されている。 泉3丁目の裏畑から須恵器が出土した。俵の形をしていて上部に漏斗がついている「横瓶(ヨコベ)」と「広口の壺(ヒロクチノツボ)」がそれである。 おそらく古墳の跡であろう。 また、同所の東部でお池の北西部に「室屋敷」と呼ばれる横穴があり、古老たちはここで遊んだこともあるという。横穴式住居跡と思われる。

アイコン安土桃山時代
法光寺所有の古文書「慶長7年(1602)寅臘月9日高掘久太郎記」に慶長元年(1596)大阪の浪士高掘園太郎外が荒れ地荒れ田を再興したとあり、 また豊臣秀吉が朝鮮征伐の時、働き盛りの住民を招集して浪華(大阪)から朝鮮に出陣させたが、強兵に囲まれ全員戦死したのか、 一人も帰って来なかったなどの記述があるところから、それ以前に田畑があり耕作していた住民が住んでいたと思われる。

アイコン江戸時代
江戸時代から明治22年(1889)まで段子川村と呼ばれていた。(段子とは段丘という意味の説と、この川の所々に水たまりがあったため団子に例え、 団子川から段子川になったという説がある)天保年間(1644-1648)ごろ、富塚村から分村し段子川村となった。延宝5年(1677)戸数14戸、28石、浜松城榎門から1里10間。

アイコン明治時代
明治22年(1889)須之木沢村大字段子川となる
明治24年(1891)吉野村大字段子川となる
明治42年(1909)富塚村大字段子川となる

アイコン大正時代
大正時代には、段子川の西に従来から住んでいる世帯が約40戸、川の東は御料林(今の国有林で狭い道路(国道157号線通称姫街道)に沿い並木通りと呼ばれ 住宅が点々としていた。その後、御料林が払い下げになり、美濃(岐阜)三河(愛知)の人たちなどが移住し、段子川西の本村と東の並木通りの集落が合併し約80戸となった。

アイコン昭和時代
昭和11年(1936)浜松市に合併、浜松市富塚町段子川となる。
世帯数126戸(御料林地837に約70戸)
昭和15年(1940)富塚町から分かれ「泉町」となる。この時葵町も分かれた。
昭和49年(1974)住居表示制度実施
「泉町」は泉一丁目、泉二丁目、泉三丁目、泉四丁目となり、一部泉町が残った。
 

アイコン平成時代
世帯、人口が増加を辿っていた昭和から10年後、平成時代に移行するとともに、現在の防衛相への売却が進んで3-4丁目は世帯、人口が減少傾向にある。
平成2年1月時点では、人口5,993人、2,058世帯。
平成21年(2009)4月現在では、人口5,375人、2,213世帯です。
特徴は65歳以上の高齢者が1,291名となり、高齢化率24%で超高齢化社会となっている。

アイコン令和時代
人口の減少はさらに進み、令和3年4月現在、人口5,111人、2397世帯です。